佐賀地方裁判所武雄支部 昭和32年(わ)156号 判決 1960年2月25日
被告人 飯盛松次郎
大三・八・一五生 酒造業
主文
被告人は無罪。
理由
本件公訴事実の要旨は
被告人は昭和三十一年九月四日頃佐賀地方裁判所武雄支部の競落許可決定により水頭寿太郎(後見人同人妻幸枝)所有の鹿島市古枝字寺角甲百二十二番所在宅地三百九十二坪及び同地上における建物等の所有権を取得したが、同年十二月上旬頃、右宅地に接続する同所甲百二十一番に、右競落決定を受けない前記水頭寿太郎所有の宅地百十五坪の存することを知つたので、これを奇貨とし、右宅地に対する水頭寿太郎後見人水頭幸枝名義の登記申請関係書類を偽造して、擅にこれを自己の所有名義に登記しようと企て、行使の目的を以て、同月十七、八日頃佐賀地方法務局鹿島出張所内司法書士永田嘉次郎方において、同人に対し、前記百二十一番の宅地を水頭から買受けたが、同人が登記済証を亡失しているから同人が来なくても出来る方法で移転登記手続をして貰いたい旨虚構の事実を申向け必要書類の作成方を依頼し登記申請委任状用紙に委任者として水頭幸枝の住居氏名その他必要事項を記載させ売渡証書用紙に売主水頭寿太郎、後見人水頭幸枝及びその住所、売渡代金十五万五千円等を記載させた上、その登記申請書類を中島庄蔵を介して同月二十二日頃前記競落宅地内の当時の水頭幸枝宅で、同女から競落宅地に関する一切の交渉を委任されていた古賀沖蔵に示し、同人が未だ前記百二十一番の存在していることを知らず競落宅地に包含されているものと誤信しているのに乗じ「隣近所と境界の紛争が将来起つた場合のために競落した土地であつても書類を整えておきたい」旨虚構の事実を申向けて同人を欺罔し、その旨誤信した同人をして右各書面記載の水頭幸枝名下にその印章を押捺させ、以て同人名義の前記宅地百十五坪に対する登記申請委任状並びに売渡証書各一通の偽造を遂げ、同月二十四日他の必要書類と共に情を知らない前記司法書士永田嘉次郎を介して真正に成立したものとして右出張所係員に提出行使し、登記簿の原本に前記内容の不実の登記をなさしめこれを同所に備付させ以てこれを行使したものである。
と云うに在る。ところで
(私文書偽造の点)
第一、押収の売渡証書(押検第一号)同所有権移転登記申請書(押検第六号)及び同委任状(押検第七号)によれば、鹿島市古枝字寺角甲百二十一番所在宅地百十五坪に対する売渡証書中、売主水頭寿太郎、後見人水頭幸枝の名下と、所有権移転登記申請書附属委任状中委任者水頭幸枝の名下に夫々に夫々水頭の押印がなされていることが明らかである。
(一) 検察官は右押印が、いずれも被告人の偽罔行為に基き相手方の錯誤を利用してなされた旨主張するので、先づこの点について考えるのに、元々偽罔行為を弄して文書の作成権限ある者に押印をなさしめる場合でも、押印者をして該文書を他の文書と誤信させる等その内容を作成権者に知悉せしめずに記名押印させたときに文書偽造罪が成立することは云うまでもないが、その偽罔行為が作成権者に対して、単に該文書作成上の動機を与えたに止まり、作成権者自身文書自体の内容を了知して押印した以上は、たとえ作成権者において右内容の誤謬を指摘し、これを指示するなどして、その内容を訂正する如く条件を附した上これを相手方に交付した場合でも、文書の成立自体に錯誤があつたとは云い得ないのであつて、この場合相手方に対し、後日右条件違反があればこれに対する民事上の責任等を追求するは格別、右押印を求める所為を以て直ちに文書偽造罪に問疑し得ないと解するのが相当である。そこでこれを本件について見るのに、
(1) 公判準備における当裁判所の証人水頭幸枝に対する昭和三十三年三月六日附及び同三十四年十月二十八日附尋問調書、第二回及び第十五回公判調書中証人水頭幸枝の供述記載
(2) 公判準備における当裁判所の証人古賀沖蔵に対する昭和三十三年三月六日附及び同三十四年十月二十八日附尋問調書、第二回公判調書中同証人の供述記載
(3) 公判準備における当裁判所の証人中島庄蔵に対する昭和三十四年十月二十八日附供述調書、第三回及び第四回公判調書中同証人の供述記載
(4) 公判準備における当裁判所の証人永田嘉次郎に対する昭和三十四年十月二十八日附尋問調書、第三回公判調書中同証人の供述記載
(5) 競売及び競売期日公告謄本、競落許可決定謄本
(6) 土地登記簿謄本二通(前記百二十二番、百二十一番の宅地関係)
(7) 公判準備における当裁判所の昭和三十四年六月二十七日の検証調書
(8) 公判準備における当裁判所の証人吉牟田鉄一に対する尋問調書、鑑定人田中剛の鑑定書
(9) 被告人の検察官に対する昭和三十二年十二月二十八日附及び同三十三年一月十四日附供述調書、第十六回公判調書中被告人の供述記載及び被告人の当公廷での供述
を綜合すれば
(イ) 被告人が昭和三十一年七月頃鹿島市古枝字寺角甲百二十二番地の水頭幸枝が後見人として管理している同人等居住の夫水頭寿太郎所有の家屋敷を一括金百八十万円を以て買受けることゝしたところ、そのうち百二十二番の宅地三百九十二坪及び同地上所在木造平家建居宅建坪五十四坪外附属居宅、工場、倉庫及び物置等六棟について、別途債権者株式会社九州相互銀行の抵当権に基く競売申立により競売手続が進められていたので、其頃被告人は水頭幸枝との間に、右競売手続において極力これを競落することゝし、若し競落の節は右代金と競落価格との差額を相手方水頭幸枝に支払う旨を、世話人古賀沖蔵及び中島庄蔵立会の上で約したこと、
(ロ) 被告人が昭和三十一年九月一日の競売期日に、右物件を金百四十五万円を以て競落し、同月四日これに対する所有権移転登記が経由せられたこと、
(ハ) しかるに、被告人はその後において鹿島市役所の土地台帳等を閲覧し、意外にも前記一括買受けの家屋敷が同所百二十二番上のみならず、同所百二十一番の宅地百十五坪に跨つている事実を発見し、右百二十一番の宅地につき所有権移転登記手続をしようと考え、同年十二月十六、七日頃佐賀地方法務局鹿島出張所内司法書士永田嘉次郎方で、前記百二十一番の宅地の所有権移転登記申請書、委任状売渡証書等に必要事項を記載させ、これを中島庄蔵に託し、同人が古賀沖蔵に呈示して前記約定に基く買受代金と競落価格との差額三十五万円中残金二十五万円と引換に押印を求めたこと、
(ニ) 古賀沖蔵は元来前記水頭幸枝居住家屋敷の一括売買につき一切の権限を委託されていたのであるが、其際右物件が前記の如く同所百二十二番のみならず百二十一番にまで跨つている事に気付かなかつた関係上、地番が相違するので訂正して貰いたい旨条件を附して水頭幸枝より預り保管中の同人の印を、右書類中同人の各下に夫々押印した事実、
が夫々肯認せられる。して見れば以上によつて古賀沖蔵は訂正を条件とし乍らも該文書の内容を前記百二十一番の宅地に関するものと充分了知していたことを窺うに足るので、其際文書偽造がなされたとは直ちに断定できない。
(二) のみならず、右文書は被告人の代理人である中島庄蔵が古賀沖蔵に呈示したものであるから、元々被告人において其際相手方の錯誤をどの程度に利用する意図であつたかについて考えて見ても、押収の保証書(押検第八号)と第三回公判調書中証人永田嘉次郎の供述記載によれば、なるほど被告人が前記の如く司法書士に登記申請書類の作成を依頼した際登記権利証の紛失を理由に殊更ら保証書を作成せしめたことを肯認することができるが、反面(イ)本件家屋敷が百二十二番百二十一番共前記の如く当初より事実上一括して売買の対象とせられていた上、(ロ)公判準備における当裁判所の証人吉牟田鉄一に対する尋問調書によれば、前記百二十二番の宅地建物の競売手続に際してさえ、鑑定人の評価は右百二十一番を含めて一括してなされていたことの明かな本件においては、第十六回公判調書中における被告人の「市役所で台帳を調べて見ましたところ、百二十一番の宅地は水頭寿太郎名義で未だ残つておりました。私はその時これは水頭等から騙されたと直感した訳です。(中略)その後十万円を三十一年九月二十四日中島を通じて再三引越するのに金がないので先に渡して呉れと云つて来ましたので仕方なくその時十万円丈渡しました。その後未登記の分を発見したので、中島を介し水頭登美さんとの隣接地に百十五坪の宅地があるから、水頭幸枝さん方に行つて印鑑証明書の外売渡証と委任状に承諾の印鑑を貰つて呉れ。それと引換に二十五万円を渡そうと話しました。」旨の供述記載は単なる弁解とのみは受取れないのであつて、一応これを措信できる。尤も、これらの点を前掲第一の(一)の(2)及び(3)の証拠と対照しても、其際、被告人に相手の登記簿上百二十一番の存することの認識がないのに乗じ、ことを有利に運ぶ底意の存したことはこれを推測し得ないではないとしても、それでも果してその錯誤を利用するの意図が、本件登記関係書類自体の内容を全然相手方に了知せしめずに押印を受けさせるまでの強い悪意であつたかは、右各証拠を以てもこれを確認できないし、この点に関する前掲第一の(一)の(1)の各証拠は元々伝聞に関する事項が多く、他に右犯意を断定すべき証拠がない。
(公正証書原本不実記載の点)
第二、次に、前掲売渡証書、登記申請書(押検第一号、同第六号)によれば本件百二十一番の宅地につき売買価格又は課税標準が、前記の一括百八十万円の事実に反し金十五万五千円と虚偽の記載がなされていることが明かである。しかし乍ら、たとえ、被告人においてこれを登記官吏に呈示したとしても、元々公正証書の原本である右物件の登記簿には単に「昭和三十一年十一月二十四日受付の売買を原因とする被告人の所有権取得」の登記がなされているにすぎないこと、記録中の右物件に対する登記簿の謄本によつて明かであるのみならず、第三回公判調書中証人永田嘉次郎の供述記載によるも一般の登記手続に際して真実に反する安い価格を記載する例の尠くない実情が窺われるので、右の如き内容虚偽の記載を以ても直ちに本件公正証書原本不実記載の点並びにその犯意を認めることができない。
その他一件記録を検討しても本件起訴事実を断定すべき確証がないので、結局本件については犯罪の証明がないことに帰し、被告人に対して刑事訴訟法第三百三十六条により無罪の言渡をしなければならない。
よつて主文のとおり判決をする。
(裁判官 松本敏男)